澱み
「翔湊くん……モテるでしょ?すごくかっこよくなったね?いや、お世辞じゃないよ?本当に」
「あぁ……、いや、そうでもない。彼女だっていないし」
「今の間!絶対モテてるから!え、っていうか彼女いないの?」
「あぁ。いない」
「ええ?私狙っちゃおうかなあ! へへ」
「ん?じゃあ、これからデートでもしようか」
「えっ、うそ、まじ?じゃあ、お茶しよう!丁度お腹すいていたし」
紅茶にミルクを一匙混ぜたような淡い亜麻色の髪の女性、亜美は、彼女の前に座る翔湊の誘いに目を輝かせて喜んだ。そして楽しそうにスマートフォンでカフェを検索し始める。しかし、その画面にふ、と影がかかり、何事かと顔をあげる。
「俺の好きなところあるから、そこいこう」
「おすすめあるの? いくいく!」
顔をあげた先、覗き込むようにこちらを見る翔湊の微笑みに、亜美はわずかに顔を赤らめる。ぱ、と距離をとって、連れてってと言ってみたが、翔湊はまた亜美と距離をつめてその手を掴んだ。ひゃっと亜美が声をあげると、翔湊はふっと笑って言う。
「デートだろ?」
「……、う、うわ~、絶対百戦錬磨でしょ?」
「別に」
「うそ!」
そのまま手をつながれて、真っ赤になってしまった顔を隠すように、手で口元を抑えながら、亜美は翔湊のあとについていった。
「翔湊くんって……なんか、本当に雰囲気変わった、よね?」
「んー……よく言われる」
「だって、全然違うじゃん!昔はもっと優柔不断だったっていうか、もっと可愛い感じだったっていうか、今はなんか……大人になったというか、諦めがあるって言うか……」
翔湊が亜美を連れて行ったのは、クラシカルな雰囲気の、深い珈琲の香りがいっぱいに漂っているカフェだ。このカフェは隠れ家的な雰囲気があり、客がたくさん入っているわけではないが、さびれているというわけではなく、非常に居心地のいいカフェなのである。
この場所は、翔湊が知っているカフェのうち、亜美が特に好みそうなカフェだった。翔湊は、亜美がちまちまとスマートフォンで検索するよりも、こうして翔湊が見立てたカフェに連れて行った方が彼女にとって良いだろうと判断し、こうして彼女をここに連れてきたのである。実際にその判断は正解だったようで、亜美は非常にこのカフェを気に入ったようだ。
しかし、亜美はこうしてさらりと自分好みのカフェに連れて行ってくれた翔湊のことをかえって疑わしく思ったらしい。昔の翔湊であれば、こんなことはまずできなかっただろうから。
「……翔湊くん。なにかあった?前は吸ってなかったのに、タバコも吸ってるよね?」
「別に何も」
翔湊が変わったそのきっかけがあるとすれば数年前の出来事だろうか。人生で一番愛した人と決別して、一人で生きていくと決めた時からだ。胸を溶かし切って頼れる人はいない、安心しきれる逃げ場所もない、進むか止まるかしかない翔湊は――その不安のはけ口として、煙草を選んでしまった。何かと世話を焼いてくる同業者には「依存症になっているからやめろ」と口酸っぱく言われているが、それをやめたら自分を失ってしまうような気がして、結局やめることができていない。
身体に悪いことだとはわかっている。あまりいい顔をされないことであるとも、嫌がられることが多いともわかっている。それでも、自分の中にたまっていく淀んだ赤色の感情を捨てるために、こうするしかなかった。どんどん自分が壊れていっているとわかっていたが、そんなことは――彼を失った時から決まっていたことだった。
「もお~。翔湊くんがそんな大人になってたなんて、ちょっとショック~。かわいかったのにな」
亜美は翔湊の現状に驚いたようで、慣れないのか、翔湊から目を逸らす回数が増えて、言葉が上の空になる。昔から翔湊を知る人がこうなることは珍しいことでもないので、翔湊は特に気に留めなかったが。
ただ、亜美を見ていると、どうしても彼のことを思い出す。
彼女とは、彼と初めて会ったライブハウスで知り合った。俺から彼女に恋愛の相談だってしたものだ。そして、彼と別れてからは避けてたこともあってか、会うこともなかった。だから、彼女と彼の記憶は切っても切り離せない関係にあり、翔湊にとって亜美は少し特別な存在だったのだ。
亜美に対して、他のどうでもいい人への態度と同じ態度をとれないような気がした。
「翔湊くん、初めてうちのライブハウス来た時のこと覚えてる?」
「――覚えてる。俺がぼけっとしてるところを、亜美さんがじーっと見てたから。あんまり見られていたから、びびったのが、すごく記憶に残っているよ」
「あはっ、悪いことしちゃったかな?だってあんまりにも彼のこと熱を帯びた目で見てるから」
「だって、あの人のこと……たぶんその時から好きだったから。ああ、実のことを言うとさ、俺の初恋だったんだ」
「へえっ……!?えっ……、そうだったんだあ!随分とぶっちゃけた暴露するんだね!」
「……あの時の俺は、本当に純粋で……本当に、あの人のことが好きだった。懐かしい」
「あは、今の翔湊くん、なんか大人びてるもんね!」
混ざる。
彼の記憶、今目の前にいる亜美さんの記憶。あの透明で鮮やかな日々を思い出せば、あの日々を破壊した自分への恨みが同時に湧き上がる。透明はすでに淀んだ青色へ。どうしても守りたい、美しい記憶だったはずなのに、あの日々を懐かしめば懐かしむほどに黒ずんでゆく。
「……でも、本当だよ。透矢さんのことが好きって気持ちは、本物だったよ」
その澱みは――全てを染める。
カフェを出て、二人は駅に向かって歩いていた。一週間後のライブの打ち合わせをする、という名目で会っていたので、目的は果たされていた。
しかし、駅が近づくにつれて亜美の歩みの速度が落ちてゆく。店に寄り道したり、立ち止まって話し出したり、なかなか駅に向かおうとはしない。そんな彼女の様子を見て、翔湊は少しためらったように……彼女の手を取った。
「亜美さん、今日は……これから予定あるの?」
「えっ……な、ないけど」
「そう。俺も今日は丸一日空いてるんだ」
「……、……!じゃっ……、じゃあ、どこかに行こう!ほら、せっかく久々に会えたんだし!」
亜美は一目瞭然なくらいに顔を赤くして、作ったような笑顔を翔湊に向けた。翔湊は目を細めて、触れた彼女の指を、ゆっくりと親指で撫でてやる。亜美はびくっと震えたが、そのまま大人しく翔湊に手を預け、可哀想なくらいに頬を染めた。
「どこにいく?映画でもいく?」
「……、」
「どこか行きたいところあるのか?」
亜美は俯きながら、唇をぎゅっと噛んでいた。翔湊は彼女と距離を詰めると、触れていただけの手の指を、絡める。
「……、翔湊くん。あ、あのね。私、別に彼女になりたいとか、大きなことは考えていないの。で、でも……私……」
「うん」
「……、は、……はじめて恋した人なんだ……少しでいいから、今日、付き合ってくれないかな」
――ああ。
亜美が泣きそうになりながら無理に作った笑顔を見せる。翔湊は心臓がざわりと震えるのを感じる。亜美のことは……あまり、穢したくないと思っていた。彼女は翔湊にとっての美しい思い出の一部だからだ。だから、再開した瞬間から感じた、彼女からの好意だって気付かないふりをして今日を終わらせようと考えていた。しかし、今……彼女に、明らかに純粋な恋心で、偽りを求められている。この誘いだって、跳ねのけようと思えばいくらでもできる。けれど。
心に生まれた淀みは、俺の心を確かに壊していたんだ。
おわり。